古琉球の舞台となった古都・浦添の歴史・文化を訪ねる旅に出ましょう。

浦添市には、代表的な歴史遺産として、中山としての最初の王統である舜天王統、英祖王統、察度王統の舞台となった浦添グスク、そして英祖王が築いた「浦添ようどれ」があります。その後「浦添ようどれ」には後に第二尚氏7代目の尚寧王が葬られました。そのほか王都としての数々の歴史秘話、文化財が点在しています。

このページでは、映画の主題である「浦添ようどれ」から先ずは訪ねていきたいと思います。

◎ 場所は安波茶交差点を牧港方面へ約300m、「浦添城跡(ようどれ)」の看板を目印に右折して約450mです。バスを利用される場合は、那覇バスターミナル経由55系統を仲間バス停で下車、看板を目印にして下さい。

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5. 浦添ようどれの時代と歴代王統図

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「浦添ようどれ」は琉球王国初期の王の墓で、極楽陵ともいいます。咸淳年間(1265~1274年)に英祖王が築いたといわれ、その後、14世紀後半~15世紀前半に石垣がめぐらされました。さらに1620年には、浦添出身の尚寧王が改修し、自らもここに葬られました。
ようどれの頂から墓庭へは、まず急坂の石畳道を下り、かつてはトンネル状の通路であった暗しん御門(くらしんうじょう)を通って二番庭(なー)に出ます。そして中御門(なーかうじょう)と呼ばれるアーチ門をくぐりぬけて、墓室のある広い一番庭(なー)にいたります。

墓室は岩盤に大きな横穴を二カ所掘り、全面を石積みで塞いだつくりです。西室(向かって右側)が英祖王、東室(左側)が尚寧王の墓といわれています。墓室の中には、中国産の石で作られた骨を納めるための石厨子があり、仏像などが巧みに彫刻されています。
去る沖縄戦で、浦添ようどれの石積みは大きく破壊されましたが、戦後琉球政府によって墓室が修復され、平成12年~17年には墓庭の石積みが復元されました。
ようどれ(ゆーどぅり)は夕凪を意味する琉球語で、転じて古代琉球語の墓を意味すると言われています。また、「浦添ようどれ」は極楽山ともいうので極楽のオモロ名(聖なる名称)とも考えられています。
※「浦添ようどれ」入口の説明板および「蘇った浦添ようどれ」(浦添市教育委員会発刊)を引用)

場所は安波茶交差点を牧港方面へ約300m、「浦添城跡(ようどれ)」の看板を目印に右折して約450mです。バスを利用される場合は、那覇バスターミナル経由55系統を仲間バス停で下車、看板を目印にして下さい。

▼写真をクリックすると大きく表示します。

yodore_p_kinjo01 浦添ようどれの入口にある説明板。貴重な戦前の写真や発掘調査風景の写真が掲載されています。
yodore_p_kinjo02 かなり急な坂を下っていきます。訪ねた日は、やわらかな陽の光を浴びながらも、ひんやりした北風にあたられながら降りて行きました。どこかで、のどかに鳥の歌が聞こえてきました。神秘的な坂ですね。
yodore_p_kinjo03 参道とかつての暗しん御門(くらしんうじょう)、中御門(なーかうじょう)が見えてきました。いよいよ、参道の小道を辿ってようどれの内部、聖なる地に入っていきます。
yodore_p_kinjo04 崖の上の岩を気にしながら、いよいよ暗しん御門にはいっていきます。昭和9年の写真を見ると、大きな岩が道を覆い、暗いトンネルを通ってあの世にでもいくような雰囲気と言われていたようです。今は、その覆っていた岩はありません。先の戦争で吹き飛ばされたらしいですね。こなごなになってあたりに散乱したんでしょうね。非常に残念です。
yodore_p_kinjo06 御門の内側があの世だったら、今辿ってきた道の向こうは、現生なんでしょうね。思わず振り返ってみました。安心です。現生への道はまだあるようです。元に戻れるようです。
yodore_p_kinjo05 暗しん御門を抜け、二番庭(なー)から中御門を見る。
yodore_p_kinjo07 中御門のアーチの向こうに、一番庭、墓室の一部が見えてきました。いよいよ聖域の中心地に入っていきます。
yodore_p_kinjo08 西室(英祖王陵)を正面に見ています。浦添では、「てだこの王」(太陽の王)としてあがめられていますね。思わず、手を合わせます。墓室を覆う漆喰、そして左右の通風孔と全体のデザインがことのほか印象的です。
yodore_p_kinjo09 東室(尚寧王陵)と西室(英祖王陵)の全体像です。首里城の玉御陵(たまうどぅん)より確かにスケールは小さいですが、さすがにようどれらしい趣があります。
yodore_p_kinjo10 西室の通風孔です。今回のホームページでは、「浦添ようどれ」のロゴマークにさせていただきました。
yodore_p_kinjo11 さて、こちらがあの悲劇の王さまである尚寧王が眠る東室です。合掌!
一族のものと思われる石厨子があったとのことですが、沖縄戦でことごとく破壊され、遺骨もそのほとんどが散逸したとのことです。
yodore_p_kinjo13 東室(尚寧王陵)と西室(英祖王陵)の全体像です。
yodore_p_kinjo12 東室の袖石積みの上に墓を守るかのように鎮座しています。もとは、左右一対だったようですが、沖縄戦で右側の石獅子は失われてとのこと。残念ですね。それにしても、何とキュートな表情をしているのでしょうか?首里城の下にある放生池の欄干に座っている石獅子と表情が似ていますね。
yodore_p_kinjo14 東室と西室の間に建てられている「ようとれのひのもん(極楽山之碑)」です。尚寧王がようどれを改修したことや、浦添家の尚寧が国王に迎えられたという内容が書かれているとのことです。戦後、琉球政府が復元したとのこと。
yodore_p_kinjo15 墓陵の内側全景です。左側が墓室で。正面に中御門、右側に石垣が。北西には海が見えていました。
yodore_p_kinjo16 墓陵は石垣が二重、三重に復元されています。北西には海が見え、宜野湾市、北谷町などが、一番遠くには読谷村の残波岬が見えます。眺望が良い場所ですね。上に位置するグスクの展望台からはもっと広々とした風景が見えます。
yodore_p_kinjo17 「浦添ようどれ」を下側から見上げた写真です。まるで、城のような石垣の造形ですね。今、立っているところはもしかすると琉球最古の寺院である極楽寺があったという場所でしょうか?
yodore_p_kinjo18 石積みの間からひょっこり顔を出す可憐な花たち。古の歴史に花を添えているかのように冷たい石との対比で思わず写真を撮ってしまいました。
yodore_p_kinjo19 花や草や木は、土地の歴史を知らずとも、その場所、地域を美しく飾ってくれている。そうして何十年、何百年たって歴史の輪を重ねていくんですね。
yodore_p_kinjo20 人知れず咲く草花は何かを物語っているかのようです。私たちも、この草花のように歴史を物語っていくことが大事なのでしょう。草花に教えられたような気がしました。

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